飯島愛の魅力 無邪気さと倦怠感

最近のマルチタレントとしての飯島愛
は、さっぱりした性格と頭の良さを感
じさせてくれる。そこには酸いも甘い
も知った人間が持つ、抜け出てしまっ
た何かがある。それが飯島愛の構えな
いキャラクターを作っているように思
われる。
その「酸いも甘いも」を知ることにな
ったのが、彼女のAV女優経験ではな
いだろうか。遅ればせながら、最近、
彼女のAVビデオを何本が見た。そこ
にはAVの基本型ともいえる、フェラ、
挿入、顔射などがある。そして何本か
を見ていくうちに、あることに気づい
た。それは、AVビデオの中の彼女が、
妖精のように無邪気で屈託がないとい
うことである。これは彼女の顔が、ど
ちらかというと童顔であることにもよ
るだろう。それと同時に、そこで行な
われている性行為の連続(たくさんの
AVビデオに出た彼女は、AVの中だ
けでも何回セックスをしたのだろうか)
からくる性への倦怠と言ってもいいよ
うな、気怠さというのだろうか、醒め
てしまった何かがある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

屈託なく無邪気に性行為を行う飯島愛
と、性行為に飽きた飯島愛がいる。そ
れは性行為に耽りながらも、それに囚
われたり溺れたりすることのない横顔
だ。淫乱なのに性への好奇心は薄れて
いるようなものだ。
飯島愛の不思議な魅力は、この正反対
の性質のものが一つになっているとこ
ろにあるという気がする。もっとも、
これは僕だけがそう感じるだけで、他
の方は、まったく違ったものを見たり、
感じたりしているのかもしれない。た
だ、僕が率直に感じた彼女の魅力とは、
こういうものだ。そしてそのことが、
飯島愛の、ものごとへのこだわりのな
さというか、さっぱりした横顔を見せ
てくれている。彼女の顔の表情もそう
だ。小悪魔的な童顔の次の瞬間、倦怠
的な気分が漂う。小悪魔的な童顔と、
大人の倦怠感が、飯島愛の表情に性が
持つ、快楽と空しさが、楽しさへの夢
と、夢のように終わってしまった空虚
をもたらしている。もっと簡単に言う
と、人間は度が過ぎると、そのものか
ら興味が失せるということだろうか。
大乗仏教の祖とされる龍樹(ナーガル
ージュナ)は、かなりの好色男で、彼
がやってきた村では、彼の目に触れな
いように娘を隠したという。それでも
龍樹には子供が400人くらいいたと
いわれるから相当なものだ。そして、
まさに「やり過ぎて」「やり尽くした」
龍樹は解脱した。僕は、ここから、人
間は度が過ぎるくらいにやり尽くさな
いと、それから自由になれないことを
知った。キリスト教にもアウグスティ
ヌスというけた外れの好色漢がいたし、
作家のオスカー・ワイルドは、「誘惑
に勝つためには?」と問い、その答え
は「まず誘惑に負けることだ」と言っ
ている。話しが飯島愛から逸れたが、
飯島愛の表情がチラリと見せる倦怠感
には、誘惑に負けて性に耽り、そのた
めに知ってしまった空しさがある。
見てしまったがゆえの失意というか、
見てしまったがゆえの幻想の喪失だ。
やってしまったため、その人への性的
関心がなくなるというケースは耳にす
る。また男性最大の関心は女性の性器
だが、男を惹き付け、狂わせてしまう
女性の性器の中を覗くプレイもあるが、
中を覗いてしまえば、それはただの内
蔵で、胃カメラで見る胃の中と大差は
ない。そもそも女性のヌードさえ、衣
服を着ているから裸を見たいのであっ
て、見たい裸というのは、隠された秘
密であり、その究極が女性の性器だ。
しかし、裸そのものは自然体だから、
つねに目に触れると、自分の裸と同じ
ように興奮させられなくなる。
飯島愛は、セックスの悦楽と空しさを
知った女性だ。だから彼女は、AVの
中で、どれほど淫乱きわまりない過激
な性行為を行い、演じようと不潔感が
不思議になくて、透明なのである。こ
のことが、飯島愛をして、AV女優の
人気を伝説化させつつも、AVから離
れてマルチタレントにならせた要因で
はないだろうか。
 
 



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